なぜ日本の医療界でAI活用は進まないのか
国立循環器病研究センター
西村邦宏 部長
AIガバナンスを巡る論点2025 #17
<最前線> 企業のAI利活用
オピニオン
OpenAIの生成AI「ChatGPT」が2022年11月にリリースされてから3年が経過した。日本の企業・組織における導入・利活用はどこまで進んでいるのか、今後の課題は何か――。AIガバナンスを巡る論点をあぶり出すシリーズ第17回は、西村邦宏 国立循環器病研究センター 予防医学・疫学情報部、医学統計研究部 部長 の視点。(聞き手は、菊池尚人 デジタル政策フォーラム 代表幹事代理/慶應義塾大学大学院 メディアデザイン研究科 特任教授)
西村 邦宏 国立循環器病研究センター 部長日本の医療分野において、AI活用の可能性は決して低くない。音声データによる認知症の早期検知、生活データを用いた高齢者の見守り、歩行情報や健診データからの疾病リスク予測など、技術的にはすでに実装可能な段階にある。実際、適切に設計されたAI活用によって、数千万円の投資で数億円規模の医療費削減につながった事例も存在する。
それでも、日本の医療界全体としてAI活用が本格的に進んでいるとは言い難い。その理由は、技術の未熟さではない。問題はむしろ、制度、投資、文化が絡み合った構造的な停滞にある。
「数が力」なのに・・・3桁遅れの日本の医療データ
AI活用において最も基本的な条件は、十分な量のデータが集積されていることだ。海外、例えば英国では国民規模で電子カルテや医療データが一元的に管理され、数百万人から数千万人単位のデータを用いたAI活用型研究や機械学習モデルの開発が進んでいる。
一方、日本では医療データが制度ごと、事業ごとに分断されている。さらに、厳格な個人情報保護規制や運用ルールによって、横断的な利活用が極めて難しい。がん全体の1割を占める希少がんなど希少疾患などは、県人口が少ない県では個別疾患の集計が公開できないなど「患者数が少ないため分析できない」という本末転倒な状況すら生まれている。
彼我の差は3桁レベルである。AIにとって「数が力」である以上、データ利活用の障壁のため、日本の医療界は欧米、およびシンガポール、台湾などに比べてAI活用のスタートラインにも立てていないと言っても過言ではない。
医療DXへの国家投資が決定的に足りない
もう一つの大きな要因は、国家としての投資規模の違いである。海外では医療DX(デジタルトランスフォーメーション)を社会インフラと位置づけ、兆円単位の予算を継続的に投じてきた。一方、日本の医療DX投資はここでも桁が二つ、三つ小さい。
標準電子カルテの導入が必要だと分かっていても、行政も努力は重ねているが全体の予算規模はまだ小さく費用を誰が負担するのかという問いに対して答えを導き出せない。結果として、医療機関もITベンダーも動けず、構想だけが宙に浮く。
医療AIは「民間の工夫・努力」に任せるにはあまりにも荷が重過ぎる。本来は国家戦略として政府が腹をくくって投資すべき領域だ。
情緒論が数量的議論を押し流す
日本の医療を語る際、避けて通れないのが情緒論の強さである。医療倫理の議論は、「一人でも不利益を被る人がいれば許されない」という情緒的な極論に傾きがちだ。その結果、AI導入によって「何人を救えるのか」「どれだけ医療費を抑制できるのか」といったデータに基づいた統計的・数量的な議論が後回しになってしまう。また個人情報保護が欧米では公衆衛生分野でPublic Goodのため例外とされるのに対して、日本では行政、民間企業、アカデミアもあまりにも慎重で石橋を叩き過ぎて割ってしまう状況かと思う。
政府が施策を打っても、事後検証や効果測定が十分に行われているとは言い難いので次につながらず一発の打ち上げ花火で終わってしまう。「やってみて、どれだけの成果が出たのか」を数字で語る文化・意識が弱いことが、AI活用への社会的合意形成を難しくしている。
高齢化する医療現場が変革を阻む
医療現場の高齢化も、AI利活用の大きな壁だ。電子カルテやAIシステムの導入には莫大な初期投資が必要であり、引退が視野に入る高齢の開業医にとって、その投資は現実的な選択肢になりにくい。そうして、現状が維持されていく。
若い世代ほどデジタルへの抵抗感は小さい。しかし、意思決定権を持つ層が上の世代に偏っているため、現場の感覚と経営判断の間にズレが生じる。この世代間ギャップが、変革のスピードを著しく鈍らせている。
完璧主義が試行錯誤を許さない
日本社会には、「失敗してはいけない」という怖れの空気がある。医療という分野ではなおさらで、失敗は決して許されない。人々の健康や生命を守る仕事なのだから当然だが、度が過ぎると数字とエビデンスに基づく冷静な議論さえできなくなってしまう。
AIを社会実装するためには試行錯誤が不可欠である。わずかなミスも許されないという完璧主義が、新しい取り組みへの挑戦を萎縮させてしまう。
AIを使わなければ医療がもたない
ただ、状況は静かに、しかし確実に変わりつつある。
医療現場の人手不足は深刻化し、従来のやり方を続けるだけでは立ち行かなくなりつつある。例えば、生成AIの活用によって看護師の残業をゼロにした病院が出現したりと、導入の効果が明らかになり始めている。
もはや論点は「AIを使うかどうか」ではない。人口減少による働き手の減少に伴い「使わなければ医療がもたない」という現実が、すぐそこまで来ている。
必要なのは、小さくてもよいから成功事例を積み重ね、その効果を数字で示すこと、そして公共の利益という視点から医療データの活用を社会全体で再設計することだ。
医療AIは魔法ではない。しかし、冷静な数理と現実的な投資判断があれば、日本の医療を持続可能にする有力な道具になり得る。その判断が、いま私たちに突きつけられている。
西村 邦宏 / Kunihiro Nishimura
神戸大学医学部 AI・デジタルヘルス学科 特命教授
京都大学医学部卒。
2002ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了 (医療統計・疫学修士)
2003ハーバード大学公衆衛生大学院修士課程修了 (医療経済学修士)
2005神戸大学医学部立証検査医学講座助教 2007年 同准教授
2018国立循環器病研究センター予防医学情報部部長
2022神戸大学大学院医学研究科AI・デジタルヘルス学科特命教授(兼任)
国立循環器病研究センター医学統計研究部 部長
循環器疫学、医療統計学、医学経済学、人工知能の医療応用
日本循環器学会 JROAD利用小委員会
会員システム/専門医登録システム委員会
日本脳卒中学会/循環器学会合同 脳卒中循環器克服5か年計画委員会登録システムWG委員(AI応用分野)
脳卒中学会 登録システム委員
関西経済連合会 関西健康・医療創生会議ワーキンググループ委員
日本高血圧学会 将来構想委員
内閣府SBIR事業(Small/Startup Business Innovation Research)で、国立循環器病研究センター、長寿医療研究センター、富士通、東京電力、TOPPANなど民間企業20社あまりによるコンソーシアムを形成。音声やスマートメーターによる認知症検知、次世代医療基盤法に基づいた数百万人規模の医療ビックデータ分析による循環器、脳卒中、認知症、介護状態の早期AIリスク診断、さらにはデジタル庁の支援による地方自治体での社会実装まで、幅広く取り組んでいる。
