第2章 デジタル技術と社会変革デジタル技術は社会をどう変えるのか

Guest Speaker

庄司 昌彦(しょうじ・まさひこ)
武蔵大学 社会学部 メディア研究科 教授
国際大学グローバル・コミュニケーション・センター(GLOCOM) 主幹研究員

 1976年生まれ。中央大学大学院総合政策研究科博士前期課程修了、修士(総合政策)。専門は情報社会学、情報通信政策。2002年~国際大学GLOCOM研究員、2019年~武蔵大学社会学部教授、2023年~武蔵学園データサイエンス研究所副所長。デジタル庁オープンデータ伝道師、総務省「自治体システム等標準化検討会」座長、総務省「地方自治体のデジタルトランスフォーメーション推進に係る検討会」座長、総務省地域情報化アドバイザー(リーダー)なども務めている。

■ この章の問題意識 ■

 デジタル政策フォーラムは、2021年秋にデジタル庁が設立されたタイミングで活動を開始した。この時に、「デジタル敗戦国、日本。そこから立ち上がるために今、必要な政策を問う。」を唱えたが、中でも公的分野のDXは他国と比べて、周回遅れの感があった。
 庄司先生はデジタル庁や総務省で地域DX、とりわけ行政情報化を推進され、様々な事例に携わってこられた。研究者であり、当事者でもある庄司先生にその評価や分析をお聞きしたく、インタビューを行った。
 また、『「監視資本主義」モデルや「権威国家主義」モデルとは異なる欧州のアプローチに単に準拠した議論を行うのではなく、国や文化圏の多様性に重きを置きながら、デジタル社会のルールメイキングの在り方について議論する。』を掲げるデジタル政策フォーラム・アジェンダ1の主査である庄司先生に、インターネット社会、データ駆動社会の将来像をお聞きした。

聞き手=菊池 尚人 慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科 特任教授

日本のDXは「ソリューショニズム」に陥っていないか?

菊池 庄司先生は「地域情報化」に深く関わってこられましたが、その経験から、日本のデジタル・トランスフォーメーション(DX)の現状をどのように見ていますか。

庄司 自己批判も含めてですが、「厳しい」と感じています。
 私たちの社会を、技術レベルが高いほど人口が少なく、技術レベルが低いほど人口が多いようなピラミッド構造でたとえてみましょう。今までの地域情報化のアプローチは、注目を集めている先端的なテクノロジーを適用することでピラミッド全体を上部から引っ張り上げるようなイメージでした。そうした挑戦には一定の意義があることを認めつつも、このやり方では社会は変えられなかったと反省しています。
 そもそも先端技術を適用すれば社会を変えられるというものではありませんし、先端的だからこそ使いこなすのが難しく、失敗する可能性もある。そのリスクに対する便利な言い訳に使われたのが「実証実験」だったという側面が否めません。失敗するかもしれないが、とにかくやってみる。そのチャレンジスピリッツは素晴らしいし、社会イノベーションを起こすために必要なことですが、多くの場合において単発の実験で終わってしまい、ピラミッド全体に技術を広め、本当に社会を変えるところまで粘り強くやり切ろうとするケースは少なかったのではないでしょうか。実証実験で「やってる感」「やった感」は出せますが、それで社会がトランスフォームすることはありません。
 本当に必要なDXというのは、先端テクノロジーを試しに使ってみるということではなく、社会ピラミッドの底の部分、つまりテクノロジーレベルとしては低いところ、ここを下から押し上げる「底上げ」のアプローチだと思います。いまだに紙にハンコを押さないと仕事が進まないとか、ファクスを惰性で使い続けているといったことがありますが、まずはそういう時代錯誤な非効率を社会全体で是正すべきです。新型コロナウイルス禍でオフィスに出社できない状況が長く続き、リモートワークを強いられたことで、多くの人たちがその必要性に気付きました。コロナ禍でマイナンバーカードの普及率が一気に上がったことは成功例です。一部の人だけが最先端の技術を使うというのではなく、全員を巻き込んでいくことが社会変革の必須条件です。
 もう一つ、「社会課題解決」という名の対症療法の問題があります。テクノロジーを使って社会にアプローチするときに陥りがちなパターンが、「社会課題解決」というキーワードをひたすら連呼することです。コンサルタントたちは「どのような社会課題がありますか?」「ITで解決しましょう!」と言ってパパっとツールを作り、解決したことにしてしまう。ベラルーシ出身の作家エフゲニー・モロゾフは、こうした取り組み方を「ソリューショニズム」と名付け、それは傷に絆創膏を張るような対症療法に過ぎず、問題の本質を考え抜くことからの逃避だと批判しています。
 実証実験や社会課題解決が花盛りなのに一向に社会が変わらないのは、こうした罠にはまっていたからではないでしょうか。気がついたら、欧米のグローバル企業にデジタルを席捲されてしまっていた。本質的な病巣に切り込まないで、絆創膏ばかりペタペタ張っている自分たちの姿にようやく気付き、産みの苦しみを味わっているのが、日本のDXの現状だと思います。

庄司 昌彦 武蔵大学 社会学部 メディア研究科 教授

菊池 教育、医療、公共交通など公的分野の情報化もなかなか進んでいません。どのような政策を講じるべきでしょうか。

庄司 行政分野こそ社会ピラミッドを支える基盤なのですが、課題の本丸まで手を突っ込まずに実験的な新事例を作ることに終始してきたのではないかと思います。例えば、先端的なデジタルシステムを導入している病院があるといった個別事例はたくさんあるのですが、公衆衛生や福祉や健康産業などを幅広く巻き込んで全体の仕組みを変えるところまで踏み込むことはなかなかできなかった。だから長期にわたって同じ課題が繰り返し指摘され続けるわけです。
 行政は人口減少や高齢化、少子化の影響をまともに受ける分野です。いま40代終盤から50代である団塊ジュニア世代が高齢者となり生産年齢人口から引退していく2040年代に向けてしっかり手を打っておかないと、昭和から引き継いできたやり方で行政は絶対に回らないと思います。行政のデジタル化に取り組んでいる人たちの間では「行政デジタル化の2040年問題」と呼ばれ、危機感が高まっています。
 ソリューショニズムに陥り、目の前にある社会課題に対して先端的なデジタル技術でなんとかしてみようと“遊んで”いるような猶予は日本にありません。教育なら教育、医療なら医療、公共交通なら公共交通で本当に実現したいことは何なのか、原点に立ち返って考える必要があります。本気で改革を進めなければなりません。デジタル技術はそのための手段に過ぎないことを肝に銘じなければなりません。
 ちなみに、コロナ禍を機に普及が進んだマイナンバーシステム、マイナンバーカードは、領域を超えた連携を実現するための中核ツールです。縦割りを超えた全体システムの再設計のためにしっかり活用するべきです。

菊池 自治体行政の情報化を進めるにあたっては、基礎自治体のサイズが小さすぎるということが大きな障壁なのではないでしょうか。広域連携、システム共通化、国の関与が欠かせないように思います。

庄司 おっしゃる通りです。今デジタル庁がやっていることの多くは、まさに国・自治体・民間のデータ連携を推進するための基盤整備です。
 2022年には個人情報保護法が改正され、法的な基盤も整いました。それ以前は、関連法が「個人情報保護法」「行政機関個人情報保護法」「独立行政法人等個人情報保護法」の3つに分かれ、さらに地方公共団体の条例が乱立するというバラバラな状態、いわゆる「個人情報保護法制2000個問題」に陥っていました。
 多様性を若干抑制することにはなりますが、個人情報の保護を最優先しつつ、デジタル社会において適正なデータ連携・活用によって社会福祉を増進できる制度でなければ意味がないということで、抜本的な改正に至りました。技術によって解決できることを踏まえて、基盤部分については国がやるか自治体がやるかの境界線を少し国側にずらすことが再設計のベースになっています。
 自治体システムの標準化も進められています。国主導で用意したガバメントクラウド(Gov-Cloud)上に、統一された仕様に基づく自治体システムを構築することで、運用負担を減らすとともに全国的なデータ連携を推進しようという壮大なプロジェクトです。自治体職員も人手不足になる人口減少社会では、国(デジタル庁)がガバメントクラウドや標準システム、データ連携などについて統一的なルールを整備し運用などのタスクを引き受けていくことには、現場(地方自治体)の負担・負荷を大幅に軽減するという大きな意義があります。
 全体的にはとても良い流れにあるのですが、一点気になっているのは地方自治体側の技術力やナレッジをいかに維持し高めるかということです。すべて国にお任せということになってしまうと、なにかトラブルがあったときの現場対応、セキュリティ対策、地域ごとの独自性を発揮したアプリケーション開発といったことが難しくなってしまうのではないか少し心配です。基本的には国が支える方向に集約していきつつ、現場の人材をしっかり育成していくことも考えていく必要があると思っています。

インターネットが加速したテクノロジーの民主化・大衆化

菊池 ありがとうございます。ここで視座を大きく上げて、インターネットは世界をどのように変えたのか、社会学の観点から俯瞰していただけますか。

庄司 テクノロジーの民衆化・大衆化を大きく進めた、ということだと思います。
 19世紀から20世紀半ばにかけては、重厚長大なものこそがテクノロジーであり、インダストリーであるといった考え方が主流を占めていました。産業や経済を発展させ社会を大いに進歩させた一方で、二度にわたる世界大戦、核戦争の脅威、さらには環境汚染や気候変動を招き、人類の存立を脅かすような強大なパワーを持つようになりました。主役は国家や大企業です。強大になり過ぎたパワーをいかに制御するかが世界の大きな課題になっています。
 20世紀半ばから現在にかけて、重厚長大から軽薄短小への技術シフトが起こります。20世紀末には、商用化されたインターネットが、テクノロジーの民主化と大衆化を加速させました。例えば、印刷機や放送機器といったメディア設備は大型で高価なので資本力のある企業しか手が出せないものでしたが、今やインターネットに常時繋がったスマートフォンでテキストや動画の発信が簡単にできてしまいます。特に、インターネット登場からの約30年は「個人のエンパワーメントの歴史」とも言えます。
 興味深いのは、インターネットがある環境が「個人の多様性」を深層から表層に引っ張り出し、社会全体の多様化を促した一方で、個を繋げて群衆(mob)化し「集合的なパワー」を生み出す触媒にもなっていることです。
 前者については、個人の多様性発露を発火点に、家族のあり様、学校のあり方、地域のかたち、職場での働き方が大きく変わりつつあります。後者については、アラブの春、香港民主化デモのような大規模な民衆の決起、権力による抑圧への反抗といった現象が顕著です。ただし、米議会襲撃事件のような扇動や、卑近なところではネット上の個人攻撃や炎上など、あらぬ方向にパワーを集中させてしまうこともあります。
 そうした危うさも抱えながら、インターネット、情報通信技術が世界を変える原動力になってきました。社会の適応が間に合わないほどのハイペースでテクノロジーが進化する中、良い変革へ導けるのか、歪みを拡大させてしまうのか、そのあたりが私自身の最大関心事でもあります。

「トラスト」の確立がとても難しい時代

菊池 今のお話に関連して、インターネット、デジタル技術が民主主義にどのような影響を与えるのでしょうか。2024年は世界的な選挙イヤーと言われていて、大きな転換点を迎えているように思われます。

庄司 先ほど少し触れた「群衆(mob)」がひとつのカギを握っているように思います。ある主張や趣向、同じ考え方を持つ人たちが、インターネットを介して繋がり合い、大きな集団、すなわち群衆(mob)を立ちどころに形成し、社会に対する影響力を持つようになってきています。Twitter、Xは“オワコン”と言われながらもいまだに生きながらえ、群衆(mob)を生み出す場として機能しています。ソーシャルメディア総体で見ても、そこに繋がる世界人口はどんどん増えています。かつて情報流通の主役だったマスメディアが、ソーシャルメディアに頼るようになってしまいました。影響力はますます強まっています。
 危うさが高まっていると言ったほうがいいかもしれません。一発の銃弾が第一次世界大戦をもたらしたように、一つの誤解や一つのデマが世界を揺るがす事態を引き起こすのではないか。それがアメリカで起こるのか、中国で勃発するのか、はたまたロシアか・・・。かつて人々は新聞やテレビの報道、すなわちジャーナリズムを信じていましたが、最近はネットの情報を信じ切ってしまう人たち、そこに自由かつ真実の情報があると思い込んでしまう人たちが増えているように思います。フェイクニュース、ディープフェイク、AIにアシストされたコンテンツなど、人を欺くような情報が急増している中で、どこで何が起きるのか分からない不安で不安定な状況にあります。
 「トラスト」の確立がとても難しい時代なのです。地域情報化に取り組んできた経験がそう思わせるのかもしれませんが、「手の届く範囲」「知り合いの範囲」という手触り感のあるところからトラストを組み立て直していく作業が必要なのではないかと感じています。いきなり、グローバルなトラストを確立するというのはかなり難しいことだと思います。

菊池 『不確実性の時代』(原題:The Age of Uncertainty)で有名なアメリカの経済学者ジョン・ガルブレイスは、格差の拡大が社会を揺るがすことになると早くから警鐘を鳴らしました。地方の産業が廃れ、地方新聞が廃刊され、地域コミュニティが縮小し、西海岸と東海岸を結ぶ Fly over Countryの空路の下にあるアメリカの田舎が廃れていくことを、50年前に予言していました。ガルブレイス氏の主張とは全く相いれないにもかかわらず、「Make America Great Again」というキャッチフレーズを掲げたドナルド・トランプ氏がデジタルを駆使して地方の保守層の心を掴んだのは必然だったのかもしれませんが、やはり危うさの兆候に見えてしまいます。

庄司 ネットに引っ張られるかたちで世論が形成されてしまうという社会現象が散見されるようになっています。所得階層によって輪切りにされるような様相が強まっていますし、教育・文化・芸能・芸術・ファッションなど非常に多様な基軸で価値観に色付けされる傾向があります。「社会の分断」が言われますが、イデオロギーの軸で右か左かというような単純なものではなく、もはや「社会の分散」と言った方が適切な状態なのかもしれません。そうした新しい社会の風景とどう付き合っていくべきなのか・・・。それに対する答えはまだ持ち合わせていません。

信じて、任せる――次世代へのバトンタッチの鉄則

菊池 デジタル社会観というべきなのかデジタル世界観というべきか、次の世代の若者がつくっていくことになりますね。我々の世代はどんな支援ができるでしょうか。

庄司 私は、いわゆる「76(ナナロク)世代」(第三世代のネット起業家の世代)なんです。ピタリ1976年生まれ、大学に入ったらインターネットの黎明期で、「2ちゃんねる」開設者のひろゆきさんとは同じ時期の大学同窓です。卒業後はGLOCOMに入って、インターネット社会を作ってきた先輩方をお手伝いしながらいろいろと学ばせてもらいました。就職氷河期世代でもあって、友人の多くはIT系企業に就職していきました。大学院在学中の2001年には堺屋太一さんが発案したインターネット博覧会がミレニアム記念行事として開催されたりもしていた時代です。いろいろな意味で、インターネットへの思い入れ、期待、愛が強烈な世代なのだと自覚しています。
 そんな私の目から今の若い世代を見ると、私以上にインターネットにどっぷり浸かっていて、彼ら・彼女らの世界観の大半がインターネット上にあるのではないかと感じます。ネットで何が話題か、もっと言うと、ネット上の自分周辺コミュニティで何が話題か、誰が炎上しているか、誰がパクったか、パクられたか、誰の情報が漏洩したかとか、そんなことばかり気にしている。
 ところが、インターネットを誰が運営し、どうやって維持しているのかということについては身近な感覚がないし、関心もない。そこを意識せずにネットの便益を享受しているのが今の若者だと思います。そして、インターネットより面白いものや大切なことがあれば、簡単に軸足を移してしまう。私の世代と違って、インターネットに対してクールでいられるから、分かること、言えることがあるのかなと思います。
 行政のデジタル化に関わっていると、GovTech領域の20代から30代の起業家と話す機会がしばしばあります。彼ら・彼女らにとってインターネットは「普通にある」もので「当たり前のツール」として使っています。私のような偏愛があるわけでもなく、ネットに過剰な期待をかけないので問題の本質がすっきり見えるようです。何か問題にぶつかった時、私などは技術的にどう解決するかと考えてしまいがちですが、GovTechの若手起業家は「それ、組織の問題ですよね?」と言って本質に切り込んでいきます。感心することしきりです。なので、私にとっての次世代はGovTechの若手起業家が代表なのですが、彼ら・彼女らのセンスを自由に発揮して活躍できる場を用意することに、私たちの世代は専念すべきかなと思っています。
 いや、むしろ、何もしない方が良いかもしれない。類は友を呼びますから。私などがシンポジウムを開催しようとすると、企画内容や使う言葉のせいなのか宣伝の経路のせいなのか、“おじさん”ばかりが集まってしまいます(笑)。対照的に、女性が中心になって開催すると女性が集まる確率が上がります。次世代に期待をかけるなら、おじさんたちが話し合って場を用意してあげるなどと考えず、若者に全部好きなようにやってもらった方が力を発揮してもらえると思います。おじさん中心の場を大事に守りながら、一部若者を入れてあげるとか、一部女性を呼んであげるとか、そういう発想では次世代は育たないと思います。信じて、任せる――世代交代の鉄則です。

次の10年、「移行期のジレンマ」を乗り越えられるか

菊池 耳が痛い(笑)。それでは最後の質問です。今後10年でデジタル技術によって社会経済システムはどのように変わっていくのでしょうか。

庄司 「移行期のジレンマ」にたくさんぶつかることになると思います。先ほども少し触れましたが、デジタル技術は加速をつけて進化していきますが、社会変革には時間がかかります。技術革新が社会に与えるプラスの要素は大きいはずですが、もしかしたら技術に人類が振り回されて社会を混乱に陥れてしまうかもしれない。AIのマイナス面の可能性について人々は既に薄々感づいていますよね。
 移行期のジレンマの多くは、人間の社会が一足飛びにデジタルに移行できないことに起因しています。例えば、自動運転車だけの世界になれば万事うまくいくかもしれませんが、自動運転車と人間が運転する車が混在する移行期が一番難しいのです。
 今後の10年は、デジタル技術の進化を見据えながら、社会経済システムを修正あるいは再構築する歴史的な転換点になるのではないでしょうか。おそらくいろいろな事件や問題が起こり、変革の引き金を引くのかもしれません。それは変革の「スタート」かもしれませんが、もしかしたら「ラストチャンス」になるかもしれません。
 ELSI(Ethical、Legal、Social Issue、倫理的・法的・社会的課題、エルシー)がキーワードになると確信しています。経済成長もイノベーションも大事だけれども、人間社会を壊してしまったり、地球環境を破壊してしまったりしたら、元も子もありません。現代のテクノロジーはそのくらいのインパクト、破壊力を持ち得るということを、しっかりと認識する必要があると思っています。
 一つ心配なのは、お話したような「情報社会学」というものが、最近の若い人たちにウケないことです。私はGLOCOM所長だった公文俊平先生の門下生として直接薫陶を受けたので、こうしたスケールの大きな議論をすることがデジタル社会に移行していくうえでとても重要だと思っていますし、やっていて楽しくてしかたがありません。2010年くらいまでは盛り上がっていたのですが、この10年ほどは当時に比べると静かになっています。この領域に入ってくる若手研究者も少ない。私たちの世代のプロモーションが下手なのかもしれません。AIと社会の関わりについては関心が高まってきているようですから、この機会になんとかして、若い仲間をもっと呼び込んでいきたいと思います。

菊池 変革の10年にするか、危機の10年になるか――。我々の向き合い方次第かもしれませんね。ありがとうございました。

◇       ◇       ◇

【対談を終えて】
 2021年に内閣官房がまとめた資料では、世界のデータ戦略はアメリカ、EU、中国、インド、その他に分類されている。私見を加えれば、アメリカはGAFAなど巨大IT企業が中心。EUはプライバシー重視のルール形成。中国は国家によるトップダウン(S. ハイマンによれば、デジタルレーニン主義)。インドはボトムアップ型に分類される。
 インターネットは一様に世界へ広がったが、内閣官房の認識が正しければ、世界でデータ戦略は異なっている。であれば、データを活用するAIの戦略や受容にも、国や社会により、差異は生じるだろう。
 AIやロボットの受容は国や社会によって、違いが出そうだ。アトムは、交通事故で亡くした息子に似せて、天馬博士が創った。ドラえもんは、のび太の兄弟か親友の存在。海賊コブラのアーマロイド・レディは昔の恋人。ガンダムは兵器。
 欲しいAIやロボットは、子ども、兄弟姉妹、親友、恋人、兵器のどれか。はたまた、全部か。人とAIやロボットとの関係は、国や社会によって、どれくらい異なるのだろうか。人口減少に転じた高齢化社会の方が、AIやロボットを早く受容するのか。それとも人口が増加している、若年人口が多い社会の方が、AIやロボットを早く受容するのか。若くて流動性のある国や社会の方がイノベーションは活発だとすれば、後者のような気がする。
 こんなことを、庄司先生がおっしゃられた「「情報社会学」というものが、最近の若い人たちにウケない。」との言が気になって、考えた。アプローチ次第では日本にも実はチャンスがある気がする。(菊池)

 

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<参考情報>

[1] To Save Everything, Click Here: The Folly of Technological Solutionism, Evgeny Morozov, 2014年3月
https://amzn.asia/d/iAoQkoz

[2] 令和3年 改正個人情報保護法について(官民を通じた個人情報保護制度の見直し)、個人情報保護委員会
https://www.ppc.go.jp/personalinfo/minaoshi/

[3] 自治体情報システムの標準化・共通化、総務省
https://www.soumu.go.jp/menu_seisaku/chiho/jichitaijoho_system/index.html