教皇レオ14世回勅、AI政策への含蓄は?
AIガバナンスを巡る論点2026 #4
<特集> AI × 人・心・尊厳
山本 芳久
東京大学大学院 総合文化研究科 教授
ローマ教皇レオ14世は2026年5月25日、全世界のカトリック教会の司教や信徒に向けたメッセージ、教皇回勅『マニフィカ・フマニタス』(Magnifica Humanitas、偉大な人類)』を発表した。人工知能の時代における人間の尊厳の保護に踏み込んだ文書がAI政策に及ぼす含蓄は――。哲学、キリスト教学を専門とする東京大学 総合文化研究科の山本芳久教授に聞いた。(聞き手は、菊池尚人 デジタル政策フォーラム 代表幹事代理/慶應義塾大学大学院 メディアデザイン研究科 特任教授)
教皇回勅は全人類へのメッセージ
菊池 教皇回勅『マニフィカ・フマニタス』(Magnifica Humanitas、偉大な人類)』には、世界約14億人のカトリック教徒、そして、それ以外の人々にとって、どのような意義があるのでしょうか?
山本 昨年5月に教皇に選出された時に「レオ14世」という名前を選んだのは、19世紀末の教皇レオ13世の精神に倣うということが主でした。教皇レオ13世(在位:1878~1903年)は、1891年に『レールム・ノヴァールム』(Rerum Novarum、新しきことがら)という回勅を出したのですが、その内容は19世紀末からの産業革命、資本主義の発展によって多くの人々が陥った過酷な状況を鑑み、労働者の権利、労働条件の改善、公正な賃金の支払い、私有財産権の正当性などについて、全世界の人々に訴えかけるものでした。それまでの教皇回勅というものはあくまでカトリック教会内部に指針を示すものであったので、『レールム・ノヴァールム』は非常に斬新なものとして受け止められました。
それ以来、全人類に向けて発する回勅を「カトリック社会教説」と呼び、その宛先の項には「全世界のカトリック司教と信徒」の後に「および、すべての善意ある人々」と加えられているのです。レオ14世の前の教皇フランシスコ(在位:2013~2025年)が出した回勅『ラウダート・シ――ともに暮らす家を大切に』(2015年)は地球の気候・環境問題に関して警鐘を鳴らすものでしたが、その回勅には宛先が書かれていませんでした。特定の誰かではなく地球上に生きるすべての人々に向けてという意味合いを込めたものでした。
レオ14世による今回の回勅も、カトリック信徒だけに向けたものではなく、全世界の人々に対して発出されたものです。回勅発表の場には教皇本人だけではなく、米アンソロピック共同創業者クリス・オラー氏も登場しました。単にAIを抑制したり規制したりするということではなくて、AI企業などとも対話しながらAIという新たな技術に向き合っていこう、そうした前向きな姿勢の表れです。
教皇回勅というものは、一度読んだらそれで終わりというものではなく、何十年単位の時間スケールで方向性を示していく文書です。今回の回勅は、とりわけ冒頭に近い箇所において、レールム・ノヴァールム以来のカトリック社会教説の歴史、基本概念、人間の尊厳、共通善(common good、個人の利益を超えた社会全体の共通利益、古代ギリシャのアリストテレスにまで遡る)などの概念を一つひとつ丁寧に定義し直しています。AIに関する記述はすぐに古くなってしまうかもしれないけれども、根本的な人間論については長く、持続的に参照されていくことになるだろうとも述べています。
教皇回勅を世界14億人のカトリック信徒全員が読み込むというわけではありません。しかし、原文は、英語、イタリア語、スペイン語、ドイツ語、フランス語、中国語など多様な言語のほか、日本語にも翻訳(カトリック中央協議会による)されて様々なウェブサイトに掲載されます。「AI、人間の尊厳」と検索すればヒットしますから、多くの人々に対して持続的かつ長期的に影響を及ぼしていくことは確かだと思います。日本では、カトリック系の様々な組織――幼稚園、小学校から大学にいたる教育機関、医療機関など――において基本的な指針として参照され、様々な問題を考える際の拠り所となります。もっとも、カトリック信徒は回勅に対して異を唱えてはいけないというような制約があるわけではないので、あくまで対話のための基本的な出発点として参照されるものです。
AIと人間の関係性について論じたバチカンからのメッセージは今回が初めてのものではありません。教皇フランシスコの在位終盤の2025年1月に、教皇庁が人工知能と人間知能の関係に関する覚書『ANTIQUA ET NOVA』(古いものと新しいもの)を発出しています。これは、AIを軸とした現代の知性と、古代以来の哲学や神学が探求してきた人間の知性・・・それらを取捨選択するのではなく、両者を上手に統合することによって今後のAI世界を考えていこう――というような趣旨の文書です。
この覚書もレオ14世の回勅もそのタイトルが象徴的に表していますが、単純にAIを抑制すべきとか推進すべきとかと一方的に意見しているのではなくて、伝統的に人間とはこういうものだというあり方とAIが最近実現していることをうまいやり方で統合していこうという提案になっています。これはカトリックの根本精神である信仰と理性の調和・統合という考え方に基づくものであり、それは13世紀の神学者であり哲学者であったトマス・アクィナス(1225年頃-1274年)によって成し遂げられたキリスト教思想とアリストテレス哲学の統合という偉業の成果でもあります。
人が「神を信じる」ということは不合理である、人が「信念を持つ」ことは視野を狭め歪めることにつながる、信仰と理性は相いれないものである――などとする考え方は昔からありました。それに対してトマス・アクィナスは、「人間を超えたものを信じるからこそ人間の理性に対する新たな理解が開けてくる」として両者を接続したのです。
教皇レオ14世の回勅は、AIを危険視して抑圧するのではなく、良い方向に導いていく指針を聖書の中に見出していこうという前向きな提案だと思うのです。現代的な問題に伝統的な知恵を組み込んでいくということであり、伝統的な知恵が現代において新たな物語を紡ぎ始めるということでもあるのです。
バベルの塔か、ネヘミヤの城壁か?
菊池 教皇レオ14世の回勅の冒頭では、「バベルの塔の建設」と「エルサレムの城壁の再建」という2つの逸話を聖書から引用し、AI時代における人類の選択肢として対比されています。その意味合いは?
(編集注記)
バベルの塔: 旧約聖書『創世記』の逸話。天に届く塔を人々が建てようとしたため、神は人々から共通・単一の言語を奪い、各地に散らした。人間の思い上がりへの戒めとして読まれる一方、効率優先による多様性排除と均質化、利益崇拝による弱者の犠牲など、人間の尊厳を棄損する行いへの警鐘でもある。
ネヘミヤの城壁再建: 旧約聖書『ネヘミヤ記』の逸話。ネヘミヤという男が、戦争で壊れたままになっていたエルサレムの城壁の再建を主導する。住民は周辺勢力からの妨害や脅しに直面しながらも協力して工事を完成させた。対話、傾聴、正義、兄弟愛、多様性の大切さを説く物語である。
山本 回勅の冒頭は、こう始まっています。
神によって、その偉大さのすべてにおいて創られた人類(humanity)は、いま、一つの決定的な選択に直面しています。新たなバベルの塔を建てるのか、それとも、神と人類とが共に住む都市を築くのか、という選択です。それぞれの世代は、自身の時代を形作り、すべての人の尊厳が守られ、正義が促進され、兄弟愛が可能となる場へと歴史を導いていく務めを受け継いでいます。ですが、どの時代も、非人間的でより不正な世界をつくり出してしまう危うさを抱えています。人類がその真のアイデンティティを傷つけてしまう危険のうちにあるときにはいつでも、私たちキリスト者は、受肉した神に目を上げます。「受肉したみことばの神秘においてはじめて、人間の神秘が真に明らかになる」と知っているからです。イエス・キリストにおいて、この偉大さを帯びた人間性(humanity)は、道となり、真理となり、いのちとなって、私たち一人ひとりが満ちあふれへと成長していく道を、開いてくださるのです。(訳:山本芳久)
人間は今、AIによる新しい産業革命の入り口にあり、すべてを画一的なデータに置き換え、一部のAI企業が先導して「新たなバベルの塔」を建てようとしている。しかし、それは、250年前の産業革命がそうであったように、人間という存在の否定、人間の尊厳の棄損につながりかねない。それぞれに弱さや限界を抱えている人間は「ネヘミヤの道」を歩むべきである。互いの弱さや限界を受け入れつつ、それぞれの持ち場で働き、共に築き上げていく。一人ひとりが全能になったり完全になったりする必要はない。互いに助け合い支え合っていく道を選ぼう――。
そういうビジョンを、教皇レオ14世は我々に向けてまっすぐに訴えかけているのです。
それは、単にAIが人間よりも賢くなってしまうから恐ろしいということではありません。「AIの超人的能力」に基づいて人間がAIによって評価されるようなことになれば、人間はAIよりも劣ったものであるとか、人間の弱さや不完全性というものは排除し克服されるべきものであるとか、人間の存在そのものが卑小化され、その尊厳が傷つけられてしまうのではないかという危機感がその根底にあるのです。
哲学・神学の研究者として私が特に興味深いと思ったのは、カトリック教会自体がこれまでの人間観、そして神学のあり方を改めてとらえ直そうとしていることです。カトリック教会は長く、人間の知性・理性というものを重んじてきたのですが、そのカトリック教会が回勅で知性という軸だけで人間を考えるのは一面的に過ぎると述べているのはとても印象的です。単にAIを批判するということではなく、AIの問題を対比に使いながら、真に人間を人間たらしめるのは何か、人間の尊厳は互いに弱さを受け入れ合うことによってこそ守られるのではないか、人間は完全でなくても存在していることそのものにおいて尊厳がある、そういうことを世界中の人々に真摯に問いかける姿勢に、素朴な驚きさえ覚えています。
人間とは何か?尊厳とは何か?神とは何か?
菊池 私自身は教皇回勅というものを初めて目にしたのですが、予想以上にボリュームがあり、綿密に練り込まれた文書ですね。
山本 非常に濃厚な文書です。バチカンの他の文書、直近では2024年にバチカン教皇庁が出した『無限の尊厳』をはじめとする数多くの文書が参考文献として掲げられていますし、聖書はもちろん、キリスト教思想の礎を築いた神学者アウグスティヌス(354-430年)、前出のトマス・アクィナスなどの著述も数多く参照されていて、相当な広がりがあるものです。カトリックの宗教文書のように思われるかもしれませんが、社会学や哲学の分野において博士論文の研究対象になるようなものでもあります。宗教的な答えがまとめて書いてあるわけではなく、時代時代の人間社会における課題について問いかけ、問いがさらに問いを呼んで広がっていくような重厚さを持っています。
今回の回勅の中では「受肉」という言葉が頻繁に使われています。キリストは神が人になった存在だとキリスト教では考え、それを受肉と言うわけですが、「神が受肉して人になることによって人間に人間とは何かをあらわにしてくれた」という言い方をしています。現代におけるカトリック教会の基本的な方向性を定めた第二バチカン公会議(1962-1965年)の文書の中にある言葉です。キリストが人間と共に生き、喜び、悲しみ、最後は痛みと苦しみを背負って十字架の上で亡くなるという一生涯を通して伝えられたメッセージ。それは、人間とは知性をひたすら磨き、苦難にも遭わず、ひたすら幸福で完全な存在なのではなく、喜びも痛みも悲しみも他者と共にするからこそ共感が生まれ、弱さの中で他者からの呼び声に応え合って生きていくものなのである、ということです。回勅では、キリストの受肉という言葉がAI時代における人間観を研ぎ澄ますために使われているのです。
カトリックの神学はひたすら神のことを探求してきたのではなくて、哲学と深く結びつき、人間を超越した神という存在について考えることを通じて「人間とは何か」を深く考察してきました。トマス・アクィナスの『神学大全』は、神論、人間論、キリスト論の3部から構成されていて、そのうちの「人間論」に最も多くの紙幅が割かれています。人間のことだけ考えていても人間のことは分からない。神という存在について考える中で人間とは何かということが浮き彫りになってくる。そういうやり方で人間のことを考えてきた伝統が、今回の回勅でも生かされていると思います。
菊池 AIという存在が出てきたことで、人間とは何か、人間の尊厳とは何か、神とは何かという問いに対する議論が逆に研ぎ澄まされていくということですね?
山本 その通りだと思います。2年ぐらい前に受けた「AIと宗教」をテーマとするインタビューで、新聞記者さんが「AIは神になるのか?」といった質問をされたのですが、「それは絶対ない」と即答しました。この世界を作った創造主を神と呼ぶならば、対するAIはどれだけ発展しても人間が作り出したものであって、そこは決定的に違うからです。「AIは宗教になるのか?」という問いかけもあります。これまでは宗教や宗教者に求めたことについてAIは何でも直ちに答えてくれるというのですが、そもそも、宗教とは答えを与えてくれるものだととらえることが危ういと私は感じています。
再び、トマス・アクィナスを例に説明しましょう。
トマスという人はカトリック史上最も優れた哲学者、神学者だと考えられています。49年という生涯で非常に多くの著作を残しました。代表作の『神学大全』は日本語訳で全45巻という大部ですが、1273年12月のある日、トマスは突然執筆をやめてしまい、未完で終わっています。秘書レギナルドが理由を問うと、「私が書いたすべてのものは、私に啓示されたものに比べれば藁くずのように思われる」と答えたといいます。
キリスト教というのはたくさんの言葉を語る宗教です。神が言葉を語り、人間はその神の言葉をさらに多くの言葉を尽くして解釈し、理解し、分かろうとする。その代表がトマスだったのですが、彼が最後の最後に得たのは、神とは人間の言葉をはるかに超えた、汲み尽くし得ない、分かり尽くすことができない存在であるという悟りだったのです。
「分かる」というのは「操作」することでもあるわけです。人間が何かを分かる、分かったからこうすればうまくいく、うまく動く・・・。しかし、神とは、人間が理解し尽くして操作して管理することができるようなものでは決してない。神とは、人間の理解が及ばないところにあり、それでいて常に人間に寄り添ってくれる、悩みと苦しみでいっぱいの時にえもいわれぬ温かさでそっと支えてくれる・・・そういう存在なのです。
宗教は答えを与えてくれません。しかし、人に関わり、手を握り、寄り添い、汲み尽くし得ない温かさで包み込む、そういう神の代理のような行いがあるからこそ、宗教が語る言葉に意味が与えられるのです。そういう観点からも、現在のAIは相当違うものですし、宗教を代替するものではないと思います。
ですから、トマス・アクィナスの『神学大全』が未完に終わっているということには非常に深い意味があるのです。神というものは人間をはるかに超えた存在だとすれば、人間がいくら知性を磨き、技術を開発しても、神というものを理解し、世界を理解し、ましてや支配することなどできない。もし、『神学大全』が“完結”し、百科事典みたいに「神のことが全部書いてありますよ」みたいな本になっていたとしたら、とてもつまらないものになっていたと思います。トマスの終え方は実に見事なものでした。
AI政策は人間観をベースに
菊池 今回の教皇回勅については、日本でも報道がありましたが、その熱量は海外に比べてかなり低く、それは言語の問題だけではないようにも思います。「人間の尊厳」についての問題意識が希薄だとすれば、それこそ危ういと思います。
山本 本当にそう思います。
今回の回勅をひとつの宗教団体が出した文書のように軽く受け止めない方が良いと思います。宗教・宗派の文書ではなくて、現代世界における人間のあり方を広い観点から問い直す普遍的な文書として考えるべきであり、そうした目的を持った文書なのです。日本のメディアで詳細に報じるところは多くありませんでしたし、「AIを武装解除(disarmament)せよ」というメッセージをことさら「AIの軍事利用に関すること」とする曲解も散見されました。「武装解除」の真意は、経済や軍事における競争メカニズムや一部の企業による技術と管理の独占状態からAI解放し、AIによる人間の支配を防ぐべきであるということです。
AIを巡る議論の厚みを増していくことは、メディアに限らず日本の産官学全体の課題だと思います。
菊池 もう一点、回勅の中に「トランスヒューマニズム」「ポストヒューマニズム」という言葉が出てくるのですが、これらを教皇はどのようにとらえているのでしょうか?
山本 レオ14世はそれらをAI時代の技術を支える人間観として取り上げていて、必ずしも一括りにして批判しているわけではありません。
(編集注記)
トランスヒューマニズム 医療、身体への技術、機器、アルゴリズムなどで、人間の能力や機能を高めようとする考え方
ポストヒューマニズム 特に急進的な立場では、人間中心の見方を問い直し、人間・機械・環境が融合して、人類が新たな段階へ進むことまで構想する考え方
教皇が恐れ、警戒しているのは、「人間は改良すべき対象である」という見方が一般化することです。それが広まると、病気、老い、障害などを抱える人の命を「価値が低い」「不完全である」と見なし、進歩を口実とした犠牲を正当化しかねないからです。それは、弱さを持つ人も等しく尊いというキリスト教の人間観と全く相容れないものです。限界があるからこそ、互いを気遣い、支え合う関係が生まれる。回勅の結びでは、弱さを持つ人間の姿を神がとった「受肉」を、この考えの根拠として示しています。
教皇は、成長したい、限界を乗り越えたいという人間の意欲、より良いものを追い求める向上心を否定していません。それを実現するために技術を活用することも肯定しています。しかし、人間が人間を超えた何か別の物になったり、技術によって人間を作り替えていったり、寿命をコントロールして不老不死を目指したり、といったことが行き過ぎれば、弱さを持つ人間そのものとその集合体である社会の否定につながるという警鐘を鳴らしているのだと思います。
菊池 最後に、先生はAIに関する政策に何を求めますか?
山本 今回の回勅によって得た非常に重要な気づきは、「AIの問題」というのは「人間観の問題」なのだということです。すなわち、AI政策とは人間観をベースにした政策であるべきなのです。政策として産業力や国際競争力を考えることは必要ですが、そのベースには人間を中心とした考え方があるべきだと思います。
デジタル技術やAIの普及によって、人間は既に大きく変わってしまっています。今、電車の中で新聞や本を読んでいる人はほとんど見かけません。みんなスマホの画面を眺めている。人と言葉の接点もこの20~30年で大きく変わりました。伝統的な古典や良質な文学は中学や高校でしっかり教えられているでしょうか。百年千年と受け継がれてきた厚みのある言葉に触れることによって、人間は人間として自分自身を受け止めていくことができるのではないでしょうか。
少し前までは、分からないことがあったらまず図書館に足を運び、本を探し、見比べながら、ようやく分かっていくというプロセスを踏みました。その過程で、目的の本とは別の面白い本を見つけて「こんな本もあるのか!」と喜んだり、たまたま開いたページに思いもかけなかった発見があってセレンディピティを体感したり、そういうことを積み重ね、時間をかけて、自分の中で問いを熟成させていったものです。
ところが、今はAIに聞けばすぐに答えが出てしまう。私も便利に使っていますから、子供たちや学生たちに使うなとは言えません。しかし、自分では絶対に書けないような優秀なレポートがAIに頼めば一瞬で出てきてしまうような学習環境では、「問いを熟成させる」とか、「天から何かが降ってくるまで待つ」とか、そういう貴重な体験を得るチャンスは得られないでしょう。これは学校の勉強にとどまりません。生きていく上での問いを抱え、答えを探し、見つからず悩み、少し遠くに置いて待ち、それでも生きていくというような、人間というものの本来の生き方というものが希薄になりつつあるように感じるのです。それは人間にとって、社会にとっての大きなリスクだと思います。
「AI政策」ということを考える際に、効率とか競争とか成長とか、そういうことだけではなく、その環境の中で人間はどう生きていくべきなのかという視点をしっかりと残していただきたい。それこそ、私が強く思うところです。
菊池 バチカンから発せられた教皇回勅の真の意味合いが先生のお話で腑に落ちたように思います。まことにありがとうございました。
山本 芳久 / Yoshihisa Yamamoto
東京大学 総合文化研究科 教授
1973年、神奈川県生まれ。東京大学大学院総合文化研究科教授。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。千葉大学文学部准教授、アメリカ・カトリック大学客員研究員などを経て、現職。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。主な著書に『トマス・アクィナスにおける人格(ペルソナ)の存在論』(知泉書館)、『トマス・アクィナス 肯定の哲学』(慶應義塾大学出版会)、『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書、サントリー学芸賞受賞)、『キリスト教講義』(若松英輔との共著、文藝春秋)など。

山本 芳久 東京大学 総合文化研究科 教授
